「自分たち自身というカテゴリを作り出す」とは言っても, 最初からいきなりそんなカテゴリを作って, みんなの前に出てきても誰も認識できない. 要は「変な人たち」でおしまいだから.
だからももクロはそもそも「アイドル・グループ」というプラットフォームを借りて現れた. 路上ライブしていても, とりあえずドルヲタが目を留めてくれる. ハコを借りることもできる. 多少でも予算が付く.
とは言っても, アイドル・グループというメタファだけを纏っていたら, ももクロはアイドル・グループでしかない. 彼女たちは次々といろいろなところからメタファを借りだしては身に纏い, コラージュしていく.
戦隊もの.
プロレス.
アニメ.
サブカル.
ロック.
ポップ・アート.
大道芸.
もちろんももクロはそのどれでもない. でもそのコラージュから, ももクロという新しいカテゴリを作り出し始めている.
キャラクタを設定する
メンバの「キャラ設定」ももとは戦隊もののメタファから持ってきた要素だろう. 赤 = リーダ, 青 = サブリーダー, 黄 = 腹ぺこ, 桃 = マドンナなどなど.
でも, ももクロのキャラ設定はメタファにとどまらない. 彼女たちはキャラ設定に従ってプロジェクトの中で役割を果たす. もともと本人の性格に合わせた設定だからそれも自然なわけだが, プロジェクトがある問題に直面したときにはキャラ設定に基づいて任務遂行だ (ボケとか, ツッコミとか, まとめとか, 真面目とか, ね). 見ている側としても分かりやすい.
そしてもう一つ重要なのは, キャラはあくまでキャラであって, 任務でも役職でも担当でもない, ということだ. キャラはここでもある種のメタファとして働いており, 何となく「こういう場合にはだいたい誰々がこういう感じで動くんだよね」というゆるい規準にはなっているけれど, そうしなければならないわけでもない. むしろ場面によってはキャラが被ったり, キャラが入れ替わったり, 敢えてキャラを崩したり, みんながキャラを放棄したり (「キャラが ... 旅に出てます」by 玉井詩織,
2011年7月のインタビュー) することによってプロジェクトが, チームが動き出す.
制約としてのキャラであると同時に, 制約を逃れるためのキャラなのだ.
フリーダムであれ
「フリーダム」という (間違った和風英) 単語には, 今の時代, 「自由」でも「フリー」でもない独特のニュアンスが込められていると思う. まったく勝手にやるわけではない. 「こうすれば自由だよ」という他人から与えられた自由を身に付けるわけでもない. 反抗でも破壊でもない. 何らかのフレーム, 関係性の網の中にいながら, 一瞬それを無視する, 少しだけ壊す, 知らないうちに違うフレームを引き寄せる, そういうあり方を指しているような気がする. 「自在」って言えばいいのかなぁ...
そして, それこそがももクロのメンバ一人ひとりの在りようだ. みんなフリーダムなのだ. バラエティのトーク中でも何だか勝手なことを喋っていたりする. でもそれが次のネタにつながることがある. ひとの話を聞いてない. それはもっと面白い何かを見つけてしまったから. 落ち着きがない. 言われたことと違うことをやりたがる. とは言え, 彼女たちはひとつになる力もものすごく強いから, それで学級崩壊してしまうわけではない. むしろそのフリーダムがもっと強いチームを作る.
これは多分アイドルとしてはなかなか異例なことで, マネジする側もそれをよく分かっている. 例えば自分たちの番組の中で, 次のツアーで売る法被を紹介しながら「これ, ムダに高いんですけど」「誰が買うの」などとメンバが言い放っても平気なのだ. マネジメント・スタッフこそが呆れるほどフリーダムであった.
エクストリームであれ
今まで肝心の彼女たちのパフォマンスについては何も語ってない. まだ彼女たちのパフォマンスに触れたことがないのなら, 今がちょうどいい機会だ. 今や生のライブやコンサートのチケットはプレミアム化して手に入りにくいけど, ホール・コンサートはすべてDVD化されている. ライブハウスでのライブなどもネット上の有料/無料チャネルやCSなどで配信されているものがある. 見てみて欲しい.
見てみた? どうだった?
変でしょ, 楽曲が. 変でしょ, 振り付けが. 変でしょ, 衣装が. 変でしょ, 歌詞が. 変でしょ, 演出が. 変でしょ, トークが.
(Chai Maxx)
(エクストリーム過ぎて意味分かんないし)
でも全力でしょ, 歌が. 全力でしょ, 踊りが. 全力でしょ, パフォマンスが. 全力でしょ, トークが.
(えびぞる百田夏菜子)
極端なんである. すべてが. それをやるか, というものばっかりなのだ. それはフツーやらないだろ,というものばっかりなのだ.
一日に2時間公演を3回やらせたりするのだ. 楽曲のサビの歌詞が「コ」だけだったりするのだ. ただただアイスクリームを舐めているだけのPVだったりするのだ.
でも, と言うべきか, だからこそ, と言うべきか, 目が離せなくなる. だって何が何だか訳が分からないからな. その次に涙が出てくる, なぜか.
深い感情のスイッチを入れる
イノベーティブであると言うことは, 自分のにしろ, 相手のにしろ, 深いところにある感情のスイッチを入れる, ということだ. 表面的な感情ではない. 括弧付きの「感動」とかではない. しょっちゅうあることではない.
ももクロのパフォマンスは, 深い感情のスイッチを入れる. エクストリームであることももちろんその要因の一つだろう.
もっと具体的に言うと, 例えば彼女たちは股を割ったり, がに股で足を高く上げたり, 見得を切ったりするような振り付けが多いけど, それは見た目が面白いと言うだけでなく, 人間の身体性の根源的なところに根差している. 普通のアイドルのようなステップ踏んで, 手を前に出して, というようなダンスではないし, ヒップホップとかジャンル化されたダンスでもない. もう1cm遠くへ, もう0.5秒早く (あるいは遅く), もっと腰を地軸に落として, 股を割って, というようなダンスだ.
特にリーダーである百田夏菜子の存在はとても大きい. ももクロのダンスの, 特に「アクロバティック」と言われる部分の多くを担っているのも彼女だが, それだけじゃない. 半分泣いたような, 半分笑ったような, 時には戦うようなめちゃくちゃ多層的な表情. やはり泣きの入った, 複雑な響きを持つ特徴的な歌声. 彼女の身体性はももクロの根底を支えている.
深い感情のスイッチは誰でも簡単に入れることができるものではない. そこには個々の身体性と歴史性が必要だ.
そして受け手の感情のスイッチが入った途端に, パフォマンスが違うものに見えてくる. 歌詞の意味が, 楽曲の構造が, 振り付けの表すものが, 一挙に変わる. 再解釈と変容が始まる. それが再び深い感情のスイッチを入れる.
(この部分は友人である佐藤幸雄との対話から多くのヒントを得た)
物語を作る
ももクロは大きな物語を背負っている. 路上ライブから始め, 初期にはメンバが頻繁に入れ替わった. ワゴン車一台で全国店頭ライブ. 手売りだけでオリコン23位. 中心メンバの突然の脱退. 少しずつ大きなハコでのライブ. 他のアイドル・グループ, ロック・バンドとの対バン. プロレス興行への参入. 集客数の増加. 日本青年館, 中野サンプラザ, 埼玉スーパーアリーナ, 横浜アリーナ...
この物語がももクロを魅力的にしている. 感情のスイッチに寄与しているのは確かだろう. ももクロに興味を持てば, 必ずこれらの物語に惹かれ, 深入りする. これらの物語は, 「大人」たちが (マネジャが, 事務所が, レコード会社が, ディレクタが...) 作り出している面も大きい. 大きな物語の力だ.
それに対して, メンバの一人ひとりも (ファン一人ひとりも) 小さな物語を持っている. それは直接にはあまり表に出ないだろう (もちろんメンバのプライベートを売り物にするような戦略は採っていない). でも小さな物語も力を持っている. 小さな物語の持つ力が大きな物語の力と均衡している間, ももクロはももクロであり続けるだろう. 小さな物語が衰弱して, 大きな物語に完全に呑み込まれたとき, ももクロはももクロでなくなるかも知れない. ももクロという大きな物語だけを残して.
追記: 関係の直接性
ももクロの「最終ユーザ」は, どんな形にしろ彼女たちのパフォマンスを見, 聴く人たち. どんなアイドル・グループでも表向きは多分同じかもしれない.
けど, ももクロは, 特に最近まで大きなスポンサや業界内のコネクションを持っていなかった (多分事務所さえあまり力を入れていなかった) こともあって, 彼女たちが直接向き合っていたのは, 本当にリスナーの一人ひとりだった. スポンサじゃない. プロデューサじゃない. 代理店の人間じゃない. そして, それは必ずしもCDを買ったり, (有料の) コンサートに来た「お金を払ったファン」たちだけに限られるのでもなかった. 多くのフリーギグ, 路上でたまたま行き会った人たち, Ustreamでの配信, YouTubeで放置された多くの素材. 最後に届けなければならない対象にできる限り直接リーチするのが彼女たちの「下積み」時代の仕事だったし, それがももクロを他に類のない独自なものにしてきたし, 深い感情のスイッチを入れる/入れられる関係を作り上げてきた.
(もっとも関係の直接性なんて, 9割方は幻想に過ぎない. そこに居心地の悪さを感じるからこそ, 彼女たちはいつもおふざけや崩した笑いをぶっ込んで来るんだろう)
これから, 「マス」を対象とせざるを得ない立場になったとき, この関係の直接性をどうやって, どういう形で維持し続けるのか, あるいはしないのか. やり方はいろいろある. もしかしたら「マス」の定義を変えることだってできる. 自由に, 破壊的に, 全力で, 遊びながら. その先を見届けたい.