2012年2月7日火曜日

ももクロに学ぶイノベーティブなプロジェクトの作り方

ももいろクローバー (Z) という, チーム/プロジェクトがある. 分かりやすく一言で言えば「グループ・アイドル」ってやつだ. 世間的にはAKB48とか, そういうやつのバリエーションの一つと思われてる. けど, 本当は多分違う. パフォマンス・チームと思うのがいいんじゃないか. シルク・ド・ソレイユみたいなものだ. あるいはSPEEDにPUFFYを掛けて, BPMを10倍にしたグループ. 違うか (明らかに違う). でもとりあえずはそんな感じと思ってみよう.

(この当時には6人のメンバがいた. 早見あかり - 向かって右から3人目 = ブルー - は2011年4月に脱退. 5人になって「ももいろクローバー」から「ももいろクローバーZ」に改名する)

表に立ってパフォマンスするのは, 1993年から1996年生まれの5人の女の子たち (2012年2月時点で中学3年生 ~ 高校3年生). メンバはスターダスト・プロモーションという大手芸能事務所に属している. 2008年5月結成. 今の時点での表向きの目標は「紅白出場」ということになっている.

僕は2011年の秋に友人である佐藤幸雄 (ex. すきすきスウィッチ, 絶望の友) に「こいつら, すごいぜ」と教えられた. 少なくともそういう点においては信頼できる友人なのだ. だから, ネットワーク上にある動画などをちょっと漁ってみたりしたけど, 正直に言ってあまり面白いとは思えなかった. これでもこの40年くらいずーっと, 相当ややこしい, とがった音楽も含めてさまざまな音楽を聴いてきた人間だ. 70年代後半から80年代中頃にはアイドルものや歌謡曲も聴き込んだ (「よいこの歌謡曲」の時代だね). それはさきっちょのサブカルチャー, アンダグランドの視点から見てもものすごく面白かった. 日本でいちばん面白いことをやっている大人が, ほんのティーンの女の子たちをどうしたら面白くできるか, 大まじめに遊んでいたのだ. しかもそれは「大衆音楽」だから, 単に音楽であるというだけではなく, 社会とも文化とも深いところでつながっていた. でも, 秋元康とかが出てきてから, そういうものは「歌謡曲」「アイドル」の世界からは徐々に消えていった. それに幻滅した自分は, 今さら小さい画面でちょっとだけ見たももクロもその延長上にしか見えなかったのだろう.

それがだ...

2011年8月のよみうりランドでのライブ映像を先述の友人にCSで見せられて, そういうもろもろはあっさりぶっ飛んだ! この小柄な5人の女の子たちを核とするチームは, 自分の中にある何か固いもの, もろもろの塊もぶっ飛ばしたのだ. これを僕らは「深い感情のスイッチ」が入ったと表現する.「ぶっ飛ばすこと」が「イノベーティブ」の定義だとしたら, 彼女たちのチームがなんでぶっ飛ばす = イノベートすることができたか (いや, 実際には彼女たちは今はまだ, まさにその途上にあるのだが...), 今書き残せる分だけ, 書き付けておきたいと思う.

(なんなの? こいつら! 2011年8月よみうりランドでのコンサートより. 中央がももクロ メンバ)

小さく始める

今ではホール・コンサートで万単位の集客をするももいろクローバー (Z) だけど, 3年前の結成時は手作りの週末路上ライブ (路上練習会と称する) から始まったのだった. 多分少数のスタッフの手弁当とメンバの週末の犠牲の上ですべてが成り立っていたのではないかと思われる. スターダスト・プロモーションという大手芸能事務所に属してはいるものの,「踊ってみた」の人たちとほとんど変わることのない素人, インディーズそのものである. この路上ライブは, メンバの変遷を経ながら, 場所を変えながら, 1年以上にわたって続けられる. 始めた時点ではメンバもスタッフも, いつ止めてもいい公開レッスンぐらいの気持ちだったろう. 実際観客による撮影などはほぼ野放しだったという.

(後の中核メンバ. 向かって左から早見あかり, 百田夏菜子, 玉井詩織, 高城れに. 玉井は13歳くらい. この頃, 多いときには9人のメンバがいたが, 学校や行事などがあり, 週末とはいえ全員が揃うとは限らなかった. それにしてもみんなテキトーな私服だなー)

けど, それが重要なのだ. 最初から鳴り物入りで大プロジェクトが始まっていたら, 今のももクロにはなっていない.

極めて親密なグループを核にする

ももクロは2009年5月から8月にかけて, 一台のワゴン車にマネジャとメンバと機材, 衣装を詰め込み, 12,000kmを移動, 全国104公演を行う. ヤマダ電機をスポンサとして, ヤマダ電機全国24店舗での店頭ライブだ. そこでインディーズとして制作したCDを手売りする. ホテルに泊まるお金もなく, 車中泊が多かったという.

しかし, このツアーは当時小学生 ~ 中学生だったメンバにとって他に替えがたい記憶を植え付ける. 年端もいかない女の子たち (しかも彼女たちはそこそこの中流家庭で大事に, それなりに厳しく育てられたお嬢さんたちだ (多分)) が24時間, 家族よりも濃密な時間を過ごすのだ. そして, この体験こそが今のももクロの核となる.

(彼女たちはこのワゴン (多分) 一台で全国を回った. これは2011年4月中野サンプラザ現場入りの際の映像. 運転しているのは川上マネジャ)

他のアイドル・グループに比べて「異常にベタベタしている」「いつもいちゃいちゃしてる」「仲良すぎ」といわれる (スタッフも含めた) 彼女たちのチーム力がここで養われている. そのチーム力が「汚い大人の罠」を軽々と越える, フリーダムなももクロらしさを作り上げている.

目標を少しずつ大きくする

ももクロは路上でほんの数人の行きずりの観客を相手にパフォームするところから始まっている. だから, 今でこそ「紅白出場」「武道館ライブ」という目標を掲げているとは言え, 最初はそんなものは夢に過ぎなかった.

最初はひとりでも多くの人に見てもらうこと, 路上ライブをやっている通りの向こうにあるNHKホールに出ること, ホールで単独ライブをやること, ライブハウスの空席をなくすこと, 2000人のキャパの会場でやること, そして次には4000人の会場で, そして1万人の会場でやることが, ひとつひとつのステップとして目標になっていった.

最初から大きく売り出すやり方もあり得る. 机の上で予算と集客予想と費用とを秤に掛けて, スポンサを見つけて, 目標数値まで何をしてでも届かせる. そのためにはAKBなどのように電通などと組めばよい. 最初の投資さえ集めることができれば, その方が効率的だろう.

でもそれはももクロがやろうとした道ではなかったのだ.

今でも彼女たちは言う. もう一度ワゴンで全国回りたいと.

「自分たち自身」というカテゴリを作りだす

ももクロは明らかに「アイドル・グループ」という枠組み (= プラットフォーム) に乗っかって出てきた. ただし, 彼女たちは自分たち自身を「アイドル」ということはない. むしろ常に「自分たちはアイドルではない」とことあるごとに言い続ける. それにはコンセプト的な部分もあるが, どちらかというと生理的に自分を (テレビなどに出てくる) アイドルであるとは認めがたいのだろう. だってアイドル・グループの中に「プロ・アイドル」(佐々木彩夏) というキャラクタ設定があるのがそもそも変でしょ!

(メンバのザ・"プロ・アイドル", 佐々木彩夏. 2005年から2007年にかけてテレ東おはスタのおはキッズなどとしても出演)

じゃあ, ももクロはアイドル・グループの一つじゃなくて, 何なのかというと, 「ももクロ」なのだと彼女たちは主張する. ももクロは「ももクロ」というカテゴリなのだと. ももクロは「ももクロ」というジャンルの第一人者 (他には誰もいない!) なのだ.

(メンバの高城れにも自分 (= インスタンス) は「高城れに」というカテゴリ = クラスなのだといつも主張している!)

メタファをいろいろなところから借りてくる

「自分たち自身というカテゴリを作り出す」とは言っても, 最初からいきなりそんなカテゴリを作って, みんなの前に出てきても誰も認識できない. 要は「変な人たち」でおしまいだから.

だからももクロはそもそも「アイドル・グループ」というプラットフォームを借りて現れた. 路上ライブしていても, とりあえずドルヲタが目を留めてくれる. ハコを借りることもできる. 多少でも予算が付く.

とは言っても, アイドル・グループというメタファだけを纏っていたら, ももクロはアイドル・グループでしかない. 彼女たちは次々といろいろなところからメタファを借りだしては身に纏い, コラージュしていく.

戦隊もの.
プロレス.
アニメ.
サブカル.
ロック.
ポップ・アート.
大道芸.

もちろんももクロはそのどれでもない. でもそのコラージュから, ももクロという新しいカテゴリを作り出し始めている.

キャラクタを設定する

メンバの「キャラ設定」ももとは戦隊もののメタファから持ってきた要素だろう. 赤 = リーダ, 青 = サブリーダー, 黄 = 腹ぺこ, 桃 = マドンナなどなど.

でも, ももクロのキャラ設定はメタファにとどまらない. 彼女たちはキャラ設定に従ってプロジェクトの中で役割を果たす. もともと本人の性格に合わせた設定だからそれも自然なわけだが, プロジェクトがある問題に直面したときにはキャラ設定に基づいて任務遂行だ (ボケとか, ツッコミとか, まとめとか, 真面目とか, ね). 見ている側としても分かりやすい.

そしてもう一つ重要なのは, キャラはあくまでキャラであって, 任務でも役職でも担当でもない, ということだ. キャラはここでもある種のメタファとして働いており, 何となく「こういう場合にはだいたい誰々がこういう感じで動くんだよね」というゆるい規準にはなっているけれど, そうしなければならないわけでもない. むしろ場面によってはキャラが被ったり, キャラが入れ替わったり, 敢えてキャラを崩したり, みんながキャラを放棄したり (「キャラが ... 旅に出てます」by 玉井詩織, 2011年7月のインタビュー) することによってプロジェクトが, チームが動き出す.

制約としてのキャラであると同時に, 制約を逃れるためのキャラなのだ.

フリーダムであれ

「フリーダム」という (間違った和風英) 単語には, 今の時代, 「自由」でも「フリー」でもない独特のニュアンスが込められていると思う. まったく勝手にやるわけではない. 「こうすれば自由だよ」という他人から与えられた自由を身に付けるわけでもない. 反抗でも破壊でもない. 何らかのフレーム, 関係性の網の中にいながら, 一瞬それを無視する, 少しだけ壊す, 知らないうちに違うフレームを引き寄せる, そういうあり方を指しているような気がする. 「自在」って言えばいいのかなぁ...

そして, それこそがももクロのメンバ一人ひとりの在りようだ. みんなフリーダムなのだ. バラエティのトーク中でも何だか勝手なことを喋っていたりする. でもそれが次のネタにつながることがある. ひとの話を聞いてない. それはもっと面白い何かを見つけてしまったから. 落ち着きがない. 言われたことと違うことをやりたがる. とは言え, 彼女たちはひとつになる力もものすごく強いから, それで学級崩壊してしまうわけではない. むしろそのフリーダムがもっと強いチームを作る.

これは多分アイドルとしてはなかなか異例なことで, マネジする側もそれをよく分かっている. 例えば自分たちの番組の中で, 次のツアーで売る法被を紹介しながら「これ, ムダに高いんですけど」「誰が買うの」などとメンバが言い放っても平気なのだ. マネジメント・スタッフこそが呆れるほどフリーダムであった.

エクストリームであれ

今まで肝心の彼女たちのパフォマンスについては何も語ってない. まだ彼女たちのパフォマンスに触れたことがないのなら, 今がちょうどいい機会だ. 今や生のライブやコンサートのチケットはプレミアム化して手に入りにくいけど, ホール・コンサートはすべてDVD化されている. ライブハウスでのライブなどもネット上の有料/無料チャネルやCSなどで配信されているものがある. 見てみて欲しい.

見てみた? どうだった?

変でしょ, 楽曲が. 変でしょ, 振り付けが. 変でしょ, 衣装が. 変でしょ, 歌詞が. 変でしょ, 演出が. 変でしょ, トークが.

(Chai Maxx)


(エクストリーム過ぎて意味分かんないし)

でも全力でしょ, 歌が. 全力でしょ, 踊りが. 全力でしょ, パフォマンスが. 全力でしょ, トークが.

(えびぞる百田夏菜子)

極端なんである. すべてが. それをやるか, というものばっかりなのだ. それはフツーやらないだろ,というものばっかりなのだ.

一日に2時間公演を3回やらせたりするのだ. 楽曲のサビの歌詞が「コ」だけだったりするのだ. ただただアイスクリームを舐めているだけのPVだったりするのだ.

でも, と言うべきか, だからこそ, と言うべきか, 目が離せなくなる. だって何が何だか訳が分からないからな. その次に涙が出てくる, なぜか.

深い感情のスイッチを入れる

イノベーティブであると言うことは, 自分のにしろ, 相手のにしろ, 深いところにある感情のスイッチを入れる, ということだ. 表面的な感情ではない. 括弧付きの「感動」とかではない. しょっちゅうあることではない.

ももクロのパフォマンスは, 深い感情のスイッチを入れる. エクストリームであることももちろんその要因の一つだろう.

もっと具体的に言うと, 例えば彼女たちは股を割ったり, がに股で足を高く上げたり, 見得を切ったりするような振り付けが多いけど, それは見た目が面白いと言うだけでなく, 人間の身体性の根源的なところに根差している. 普通のアイドルのようなステップ踏んで, 手を前に出して, というようなダンスではないし, ヒップホップとかジャンル化されたダンスでもない. もう1cm遠くへ, もう0.5秒早く (あるいは遅く), もっと腰を地軸に落として, 股を割って, というようなダンスだ.

特にリーダーである百田夏菜子の存在はとても大きい. ももクロのダンスの, 特に「アクロバティック」と言われる部分の多くを担っているのも彼女だが, それだけじゃない. 半分泣いたような, 半分笑ったような, 時には戦うようなめちゃくちゃ多層的な表情. やはり泣きの入った, 複雑な響きを持つ特徴的な歌声. 彼女の身体性はももクロの根底を支えている.

深い感情のスイッチは誰でも簡単に入れることができるものではない. そこには個々の身体性と歴史性が必要だ.

そして受け手の感情のスイッチが入った途端に, パフォマンスが違うものに見えてくる. 歌詞の意味が, 楽曲の構造が, 振り付けの表すものが, 一挙に変わる. 再解釈と変容が始まる. それが再び深い感情のスイッチを入れる.

(この部分は友人である佐藤幸雄との対話から多くのヒントを得た)

物語を作る

ももクロは大きな物語を背負っている. 路上ライブから始め, 初期にはメンバが頻繁に入れ替わった. ワゴン車一台で全国店頭ライブ. 手売りだけでオリコン23位. 中心メンバの突然の脱退. 少しずつ大きなハコでのライブ. 他のアイドル・グループ, ロック・バンドとの対バン. プロレス興行への参入. 集客数の増加. 日本青年館, 中野サンプラザ, 埼玉スーパーアリーナ, 横浜アリーナ...

この物語がももクロを魅力的にしている. 感情のスイッチに寄与しているのは確かだろう. ももクロに興味を持てば, 必ずこれらの物語に惹かれ, 深入りする. これらの物語は, 「大人」たちが (マネジャが, 事務所が, レコード会社が, ディレクタが...) 作り出している面も大きい. 大きな物語の力だ.

それに対して, メンバの一人ひとりも (ファン一人ひとりも) 小さな物語を持っている. それは直接にはあまり表に出ないだろう (もちろんメンバのプライベートを売り物にするような戦略は採っていない). でも小さな物語も力を持っている. 小さな物語の持つ力が大きな物語の力と均衡している間, ももクロはももクロであり続けるだろう. 小さな物語が衰弱して, 大きな物語に完全に呑み込まれたとき, ももクロはももクロでなくなるかも知れない. ももクロという大きな物語だけを残して.

追記: 関係の直接性

ももクロの「最終ユーザ」は, どんな形にしろ彼女たちのパフォマンスを見, 聴く人たち. どんなアイドル・グループでも表向きは多分同じかもしれない.

けど, ももクロは, 特に最近まで大きなスポンサや業界内のコネクションを持っていなかった (多分事務所さえあまり力を入れていなかった) こともあって, 彼女たちが直接向き合っていたのは, 本当にリスナーの一人ひとりだった. スポンサじゃない. プロデューサじゃない. 代理店の人間じゃない. そして, それは必ずしもCDを買ったり, (有料の) コンサートに来た「お金を払ったファン」たちだけに限られるのでもなかった. 多くのフリーギグ, 路上でたまたま行き会った人たち, Ustreamでの配信, YouTubeで放置された多くの素材. 最後に届けなければならない対象にできる限り直接リーチするのが彼女たちの「下積み」時代の仕事だったし, それがももクロを他に類のない独自なものにしてきたし, 深い感情のスイッチを入れる/入れられる関係を作り上げてきた.

(もっとも関係の直接性なんて, 9割方は幻想に過ぎない. そこに居心地の悪さを感じるからこそ, 彼女たちはいつもおふざけや崩した笑いをぶっ込んで来るんだろう)

これから, 「マス」を対象とせざるを得ない立場になったとき, この関係の直接性をどうやって, どういう形で維持し続けるのか, あるいはしないのか. やり方はいろいろある. もしかしたら「マス」の定義を変えることだってできる. 自由に, 破壊的に, 全力で, 遊びながら. その先を見届けたい.